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2020年03月24日

 

ひさしぶりにバスで買い物に行ってきました。

 

バスに乗っている人がみな、会話を

しないようにしている印象がありました。

 

静かだなという印象です。

 

外食で天丼を食べているときも

聞こえてくるのは店員さんの声だけ。

 

スーパーに行っても静か。

買いたいものだけ買ってさっさと帰ってしまう

という印象。

 

人出も少なく、街が沈んでいるような

感じもしました

 

人に対してデリケートになっている自分もいます。

 

誰かがせき払いやくしゃみをするとなんとなく

緊張してしまう。

 

逆に、自分がせきをしないように神経を使う。

意識すればするほど、のどに不快感がうまれ

抑えきれなくなりそうでつらいです。

 

緊張するとせきがしたくなる自分には。

 

 

経済的損失、コロナにかかったらという不安

生活費に困るようになる人たちなど

いろんなダメージがあるとおもいます。

 

それとともに、このような状況になってしまった

ことによる精神的損失も大きいかもしれません。

 

街がどことなく色を失っていくことによって

精神にも影響を与える。

 

うつ病の人はうつ状態が悪化することもあるかも

しれないし、精神が強くないひとはダイレクトに

ダメージを受けてしまうかもしれません。

 

 

精神の病を持っていても明るく、楽しく、

元気よく、清く、正しく、美しく。

 

状況が改善されるその日まで

あまり深刻になりすぎずにありたい。

 

現状が暗いものであればあるほど

ちょっとしたことで喜べる

自分でありたいとおもいます。

 

 

PS けやきでしゃべりすぎて、飛沫を

   飛ばしすぎないように注意したいとおもいます

 

 

 

 

 

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by コロンボ


 

keyakinokaikeyakinokai at 10:08

2020年03月17日


相手がどうゆう人だかわからない状態というのは

不安な状態です。

 

それをおぎなってくれるのが、個人が持っている

経験と想像力だとおもいます。

自分を振り返ってみて、こう言われたらうれしいよな

とか腹が立つよなとか。

 

自分を基準にして相手の感情を想像して、

「どうおもうかな」と考える。

いってみれば自分の主観で相手がどうおもっているかを

決めつけることなのかもしれません。

 

まちがっていることも多いかとおもいます。

 

想像力を使って相手のおもっていることを考える

ことができるのは人間だけができる特権で

あるかもしれません。

 

それがまちがっていたとしても、そうゆうふうにしか

人はコミュニケーションをとれないのではないか

ともおもいます。

 

そんな人間に対して新型コロナウイルスは残酷です。

 

まず、コミュニケーション以前に人に対する恐怖感が

うまれる。

 

だれかにうつされるんじゃないかと、と疑心暗鬼になってしまう。

 

問答無用で人と人が近づくことを許さない。

ウイルスの蔓延によって人と人とを分断していくような

事態がうまれる。

 

いつ事態が収束するのかは誰にもわからない。

 

本当の意味での終息がこない限り、

いちど体で覚えてしまった人が集まることへの警戒心

コミュニケーションをもはばかれるような恐怖心

が人々の心の中に生息し続けてしまわないか

と心配してしまいます。

 

時を経て、こんなこともあったよねと笑い話にできる日が

はやくくることを願います。

 

 

PS 自分が大丈夫なら

   家族が大丈夫なら

   仲間が大丈夫なら

   感がつよくなって、他人を邪険にあつかうようなことに

   ならなければいいなぁとおもいます。

 

 

 

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by コロンボ

 

keyakinokaikeyakinokai at 09:56

2020年03月10日


 

 

先週、一週間はけやきを休んでしまいました。

 

今週からけやきに復帰です。

 

新型コロナに対する警戒心を持ちすぎて

なんとなく休んだのです。

 

毎日、テレビを見たり、本を読んだりする中で

自分をやわらげてくれる話はないかと

拾っていました。

 

そのなかで、テレビでコメントをしていた医師が

新型コロナにかかってもインフルエンザ程度の

症状で収まってしまうひとが多い、

と言っていたのです。

 

どこまで信用してもいいのかはわかりませんが

気が楽になります。

 

未知なものにぶつかると、必要以上に敵を

大きくみてしまう。

そこから不安が生まれるのだとおもいます。

 

それは、自分だけだと思っていたのですが

お店に行ってみると

マスクがない、アルコールがない

トイレットペーパーがない

お米がない、ないない状態になっていました。

 

みんな不安なんですね。

 

コロナストレスで体に不具合がでた

おばあちゃんのはなしもありましたが

コロナにかかることを避けるために

ほかの病気を悪化させてしまうのでは

本末転倒です。

 

今一番欲しいのは

新型コロナをどこまで恐れればいいのか

実際には、かかった人はどの程度の症状で

どのくらいで治っているのか

言ってみれば安心感をあたえてくれる

情報です。

 

深刻な話はいりません。

 

精神病にかかっている人も

(自分だけかもしれませんが)

ことを重大にとらえ過ぎてしまう傾向が

あるかもしれません。

 

こうした中での、安心をあたえてくれる

情報の価値は大きいものだとおもいます。

 

最後に、自分に対して言っておきます。

「気楽にいこうよ」

ころな

by コロンボ




keyakinokaikeyakinokai at 09:52

2020年02月25日

なにかがあったときに、その人が試される。


家族が病気になったとき、どうゆう行動を

とるか。

新型コロナウイルスが蔓延したら

パニックにならないか、かかった人を差別しないか、

買占めに走らないか。


自分は絶対まちがったことはしないとは

言い切れない問題です。


このようなときに、その人の本質が試されているのだと

おもいます。

非日常なことが起きた時に、自分が暴露されて

しまうこともあるということなのかもしれません。


誰でも「不安」を眼前にすると、日常ではとらないような

行動をとってしまう可能性もある。


それはどこでも起こることだとおもいます。


日本でコロナに感染した人が多く確認された地域に対して

そこはもうだめだと早とちりしてしまうこともあります。

ましてや外国から見れば「日本自体がもう危険だ」と

おもわれることは、悲しいですが、ありうることだともおもいます。


精神障がい者が事件を起こせば、それがごくごく一部の

ことであっても、「精神障がい者はみな怖い」とおもってしまう

人がいることと同じなんじゃないかと感じてしまいます。


これほど寂しいことはないのかもしれません。


「個人」のこころに対して、いろいろなことが試されているような

気がしてなりません。


PS 正直言って、自分自身が新型コロナウイルスの問題で、

   他人に対して疑心暗鬼になってしまっているような

   気がします

   他人とのコミュニケーションを分断するような

   今回の事態が、はやく収束することを願っています


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by コロンボ




keyakinokaikeyakinokai at 12:30

2020年02月17日

定価で買った本はちゃんと読む

中古で買った本はちゃんと読まない

1章読むと疲れる

定価で買った本がつまらないと、

 後悔しながら読むことになる

小説は読まない

ためになりそうな本は

 実際には役立てられない

文章の書き方みたいな本を読んでも

 書けるようにならない

なにかをしようとすると本から入りがち

読むそばから頭から消えていく、残らない

2度読みする本はほとんどない

書店で棚をすみからすみまでチェックする

紙の本のほうが好き

ふせんを貼りすぎて、どこが大事だと

 思ったのか、よくわからない

本を選ぶとき、本の雰囲気を重視する

もうちょっと安くてもいいと思っているが

 実際は安いともおもっている

紙の本がなくならないでほしい

文庫と新書が好き

 単行本は重いから

いつでも、どこでも読める

トイレに置いてある


新型コロナウイルスの影響をうけて、

人ごみに出ることが恐怖になっています。


休みの日も家の中にずっといたりして、

息が詰まりそうにもなります。


そんなとき、本を読んで過ごすことで

少し気がまぎれます。


言ってみれば現実逃避です。


今回の事態で、現実と向き合っている

医療従事者の方々、関係して動いてる方々

に対して畏敬の念すら感じます。


個人としては情報に踊らされることなく、

できるだけの対処をしながら(手洗いうがい消毒

マスクくらいしかおもいつきませんが)、

日常は日常として、おこたらないようにしようと

おもいます。


正直、怖くてしょうがないですが。


うぃるす


by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 11:05

2020年02月10日

役割があるということは責任感を

持つということ、やりがいにもつながります。


責任があるということは適当なことができない。

物事に向かう姿勢も変ってくるとおもいます。


家族の中にも役割があるとおもいます。

長男としての役割、次男としての役割

息子としての役割

それらがいいとか悪いとか関係なく

あります。


役割があれば立場が生まれる。

ただ立場というものはそのひとを縛るもの

であるかもしれません。


その立場に対しておもうことがあるのです。


たとえば、電車が遅れたとかで駅員に詰め寄る

ひとがいるとします。

素朴に考えても、その駅員を怒鳴りつけて

解決する問題でもないし、そのひとが悪いわけでもない。

ただ駅員であるという立場が罵声を浴びせられる

ことも仕方がないと受け入れさせている。

罵声を浴びせるほうも当然とおもっている。


こういう空気が社会をギスギスしたものと

感じられるものにしているのではないかと

おもってしまうのです。


立場を配慮しない言葉はエスカレートしがちだと感じます。


自分がもし詰めよられたら、と想像してみる。

自分の視点からばかり見ていると相手に対する不満ばかり

ふくらみがちです。


そこで相手の立場に想像で自分を置いてみる。


立場以前に一個人として相手の痛みに思いをはせてみる。


ひとは関係の中でしか、生きれないものなのだから

最低限、相手の立場に思いをいたすことが

大事なのだとおもいます。


そうはいってみてもなかなかむずかしいです。

でも、相手を責めるようなことばかりにはならないよう

注意していきたいとはおもいます。


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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 12:24

2020年02月03日

将来、いちばん不安なことは高齢者の

ひきこもりになって、孤独死する

んじゃないかということです。


なぜか初対面の人に嫌われているんじゃ

ないかと思い込んでしまうことが多いのです。


実際に嫌われているかどうかは

確かめようがないですし、

わからないことなのですが。


このまま歳を取ったら、近所の人にも

、親戚にも、兄弟にもスルーされそうです。


ちなみに相談できる友達もいません。


なんか人生相談みたいですね。


自分に問題があるとすると

ひとを寄り付けないようなオーラが出ている

つまらなそうな人だと思われやすい

感情がなさそうに見える

むずかしそうにみえる

生理的に嫌い


なんか自分のことをマイナスにとらえていると

それが外面にも表れてしまいそうなので

ネガティブ終了。


でも、最近強く思うんです。


他人が自分をどう思うかは

自分にはどうしようもないということを。


自分では変えられないことを悩んでも

仕方がない。


自分が楽しいと思うこと、快適だと思うことを

自分なりにやっていくことが大切だということを。


その結果「あいつ目に障る」と思われたとしても

仕方がないことです。


そもそも、自分の人生を楽しめていない人と

仲よくなりたいという人もいないですよね。

まず自分のやっていることを肯定して、

毎日を充実させる。


孤独死については、もう少し先に考えたいと思います。


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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 11:45

2020年01月27日


自分が入院していた20年程まえ

患者は圧倒的に受け身の存在

でした。


主導権は先生が握っていて

患者の立場はとても弱かった。


外科的、内科的病気とは違って

何をもって、治療というのかも

よくわかりませんでした。


なんとなく看護師に対しても

「ちゃんとしてなくちゃ」

という気持ちで

きゅうくつな思いをした場面は

多々ありました。


反抗的なことを口にしたら

保護室に入れられるんじゃないかとか

ぞんざいなあつかいをうけるんじゃないかとか。


精神を治すというのに先生や看護師に気を

使いすぎるという本末転倒もありました。


何かにつけて弱い立場だった精神病患者。


現在どうなっているかはわかりません。


いちばんの治療法とは何かを

考えてみます。


一つはコミュニケーションが円滑にいくこと

ではないでしょうか。


先生や看護師と対等な立場で接するくらい

にしていないと、へりくだるような態度

ばかり取っていると、病状もよい方へ

向かわないのではないでしょうか。


自分を抑える方向に向かうばかりでは

治るものも治らないのではないでしょうか。


もう一つ精神療法として重要になるのは

自分を表現していけるかどうかだとおもいます。


自分を表現することについては

ほんの些細なことでいいから自分の思っている

ことを形にしていく。形にしたことで自分の

思っていることが整理されたり、もっと

あらわしていきたくなる。


その繰り返しが精神にもいい循環をうむような

気がします。


コミュニケーションを円滑に取ることと表現すること

これらのことが精神を改善するうえで

より重要になってくる気がします。



 kurumi


by コロンボ

keyakinokaikeyakinokai at 12:29

2020年01月20日

今年は暖冬が続いていくそうですね。


寒さに弱い自分には気持ち的には少し楽です。


でも自分がうれしいということの裏には

農作物などへの影響や、スキーが好きな人

とにかく雪が好きというひとへの

配慮の足りない言い方だということもある

のかもしれません。


一番考えなければならないのは

自分がうれしいとゆうことの

一方には

うれしくないという人がいるという

ことなのでしょう。


人間関係においてもそうなのかもしれません。

他人には自分とは違う価値観がある

ということをわすれがちなうえに

自分の価値観を押し付けてしまう。


自分と同じ意見の人などひとりもいない

くらいにおもっていたほうが、まちがい

がないのかもしれません。


たとえば、障がい者は個性的という言葉で

くくられること(周囲の理解が進む場合も

あるかもしれませんが)と


個人を見たうえで、

結果として

「あの人って個性的だよね」といわれるのでは

印象が全然違うような気がします。


前もって「障がい者は個性的」とくくられると

「自分は個性的じゃないし」と考えなければ

ならなくなってしまいます。


ひとは何かを考えるときにくくってしまったほうが

楽なのかも知れません。


ゆとり世代、さとり世代というような言葉が

令和の時代になっても機能していること自体


その人個人を見るのではなく、そのうえ、その人自体

を尊重していないことの表れのような気もします。


餃子

by コロンボ




keyakinokaikeyakinokai at 11:45

2020年01月14日

先日、テレビで認知症医療の

第一人者の精神科医が認知症に

なったというドキュメンタリー

をやっていたので

何気なく見だして最後まで

見てしまいました。


その先生は認知症の家族の

負担を軽減するため、デイケアの

拡充などの活動をしていた

そうです。


後年、先生自身が認知症になり

デイケアに足を運びましたが

「行かない」と言い出したりして

しまうのです。


ひとはどんなにサービスが

いきわたっていて、そこにおとなしく

通っていれば家族に負担がかからない

とわかっていても行きたくないこともある。


頭で理解できても

感情的に受け入れられないという

ことは多々あることだとおもいます。


自分のことを考えてみると、歳をとったとき、

どうゆう感情を持つかはまったく未知であり

想像もできません。


歳をとって若い時と違うことを

いいだしたとして

「言ってたことと違うじゃん」

と責められても困るとおもいます。



ひとは生まれた時代、環境、年齢、経験

立場によって容易に考え方が変わったり

行動が変化したりするものだとおもいますし

それでいいのだとおもいます。


だってみんなそうだから。


自分を考えてみるとき10年前の自分と

ぜんぜん変ってないとしたら

それはそれで何も成長していないという

ことなのかもしれません。


ただ変化するのはあたりまえとわかっていても

自分の中で

前に言ってたことと全然違うんじゃないかとか

言葉に行動がともなっていないんじゃないかとか

思われることを恐れる部分があるのは事実です。


今回この番組を見て、何事においても

自分が実際その立場になってみないと

本当にはわからないことって

そうとう多いんじゃないかと

おもいました。


もしかすると健常者にはわからない

障がい者としての経験値も

貴重なのかもしれないとも感じます。

病気が自分にもたらした

変化というのもありそうな気もしますし。


そのくらいポジティブに捉え返したほうが

精神衛生上もよさそうです。



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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 10:56

2020年01月07日

あけましておめでとうございます


令和になって初の新年です


去年はいろんなことに手をだして

経験を積めた一年だったような

気がしています


何をしたかですか?


大したことはしていません


ただ積極的に物事にかかわることが

例年よりできたのではないかと

おもっているだけなのかも知れません



今年は物事にこだわらない

ということにこだわっていきたい

とおもいます


結局こだわっているし

よくわかりませんが


自分でどうしようもないことには

こだわらない

他人がどういうことをしていても

気にしすぎないようにする

こだわらないという自然体で

自分のやりたいことをやっていく


ひとは普段 周りのことを気にしない

ようにしているつもりでも

結構 左右されているものだと

おもっています


特に自分は気にしまくっています


その気持ちにとらわれてしまうと

全てが振り回されている気がして

自分の身の置き方がよくわからなく

なってしまいます


その意味で自然体でいるように

つとめることが大事になってくる

ような気がします


だから自分はこだわらないことに

こだわるということを宣言したい

のです


なんかむずかしそうですが



週一回のペースでブログを書くことを

はじめてから足かけ三年目

になります

今後も続けられたらうれしいな

とおもいます


だれにも読まれていないとしても

自己満足にすぎないとしても

それでもいいのかなと感じています



みなさまにとっての新年が

平穏で健康で 少しでも願いがかなって

前に進めるものであってほしいな

と願います


自分も今年一年 がんばっていけたらな

とおもっています


今年もよろしくお願いします


令和2年 1月7日()


コロンボ

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keyakinokaikeyakinokai at 12:44

2019年12月23日


商店街にクリスマスの音楽が流れる

コンビニの前でケーキを売っている

大抽選会が行われる

なんだかんだ言ってレコード大賞が

 気になる

年越しそばがインスタント

なんだかんだ言って紅白をみる

除夜の鐘を鳴らしに行こうかと

 考えるが行かない

除夜の鐘の間合いがバラバラ

初日の出の時間は寝ている

年賀状が来ない

実際に「あけましておめでとうございます」

 をいう機会がない

お年玉をあげられない

逆に、いまだにもらっている

箱根駅伝をみる

すぐ風邪をひく


自分がこどものころは、

年末の非日常感

年始のワクワク感といったものを

もっと感じていたような気がします。


歳をとるにつれて感じ方って変わってくる

ものですね。


大晦日も元日も365日のうちの

ただの一日にしかおもえなくなりました。


これが自分が結婚していたり、子供が

いたりしたら、またべつの感じ方

をするものなのかもしれないですが。


自分がこどもの頃は特別だとおもっていたのと

おなじように今のこどもたちもおもっているのでしょうか。



季節の節目や時間の区切りがあいまいで

のんべんだらりと流れて行ってしまう現在の中で


自分も何かを感じる時間というものを

取り戻していくことも大切なのかなとも感じます。


年末の寂しさが嫌なようにも

心地よくも感じる冬の夜です。



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by コロンボ




keyakinokaikeyakinokai at 13:10

2019年12月16日

今年も2週間余りとなりました。


早めに来年の目標などを考えたいな

ともおもいます(早すぎ)。


今年できなかったことは

来年もできないんじゃないか

という話もありますが。


PM11時前に就寝する

貯金をする(1千万くらい、無理)

料理を作るようにする

野菜の好き嫌いをなくす(無理)

友達を100人つくる

趣味を持つ(いまは本を読んで、

       テレビを見るくらい)

主治医に言いたいことを

 言えるようになる

何事も積極的にやるようにする

ネガティブ思考を減らす

AM6時に起きるようにする

自分でお弁当を作る

作業をサボって休憩ばかりしない


など


1年の目標を立てると

理想的なものになりすぎて

こなせるはずがないものになりがちです


本当にそうしたいのかどうかも

よくわからなくなってきます。


目標を立てて、10個中、2個でも

達成できればそれでよしとしたい

とおもいます。


今年は令和元年でした。

お正月と元号が移行するとき

新年が2回あったようで「なんか得した」

という気持ちもありました。


平成三十一年製の10円玉を

見つけて「レアーだ、とっておこう」

ともおもいますが、価値は

出ないかもしれません。

令和2年になる前に、令和元年

の硬貨を眼にしたいです。



年が改まっても、あくまで自分は自分で

あって何も変わるものではありません。


年の初めとかに変えようと目標を立てるよりも、

変わりたいときに変えていくというほうが

自然なことです。


今後も、変われない自分に

嫌気がさすこともあるとおもいますが、

ただひとつだけ、何事にも楽しんで

臨めるくらいにはなりたいです。


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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 11:30

2019年12月09日


オブラートに包んでのむ

服薬カレンダーを使う

処方量が多すぎて、のみきれない

ちゃんとのんでるつもりなのに余る

牛乳でのんでしまう

コーヒーでのんでしまう

コーラでものんでしまう

便秘になる

副作用で足がムズムズしたりする

のんだかどうかわからなくなる

 わからないので、のんでみる

 確認すると大抵、二重のみ

食前、食後どっちにのむのか

 わかっていない

ジェネリックをしつこくすすめられる

毎日のんでいるが「必要なのか」

 とおもってしまう

とん服が効いているのかどうか

 わからない

勝手な断薬はしないほうがいい


自分が病気を発症した20年くらい前のころは

入院すると一気に薬の量が増えました。

当時、本人はよくわかってなかったですが

「薬漬け」だったと今になるとわかります。


入院していていちばんつらかったのは

睡眠がしっかりとれなかったこと。

夜中の2時くらいに突然目が覚めたりして

睡眠薬のとん服をよくもらいにいってました

(朝に影響するからと大抵もらえませんでした)。


どこかで精神が張り詰めていて

しっかり眠れなかったのだろうとおもいます。

正直、いびきもうるさかったし。


退院してからも、自分から「先生、こんなにのめません」

と言うまで、結構ながいあいだ大量に処方されていました。


言ってから一気に減ったので

「どこまで必要な処方だったのか」いまでは疑問です。



病気だから薬をのむ


当たり前のことかもしれません。


ただそれが生活の質にまで影響をあたえるものである以上


不安があるのなら、普段なかなか言えないという人も、

勇気を持って先生に言うことが大切なのかもしれません。

現在の処方事情を知らないですが。

たぶん劇的に改善されているとはおもいますが。


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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 13:42

2019年12月02日

師走になりました。


風邪などひいていないでしょうか。


自分は10月にすでにひいてしまいました。


歳のせいでしょうか。


ここ数年は毎年のように風邪をひいています。


一度風邪をひくと抗体ができて二度目は

ひかないと信じています。


根拠はないですが。


インフルエンザなんかは型が違うものに

二回かかることもありますし。


熱がでたりすると、

夜寝付けなくなったりして

とても不安になることもあります。


恐怖のあまりこのまま、死ぬんじゃないかとか

思考が極端に走ります。


今は母がいるので精神的不安感は

軽減されますが、

これがひとりになったときだと

したらとおもうと怖いです。




ひとり暮らしの人を尊敬するときは、

ちょっとした困りごとが起きたときに

ひとりでその問題をクリアーにしていく

強さを見たときです。


自分が困りそうなこと

水道のパッキンが壊れたときに自分で直せない

ガスの元栓、閉じまりをちゃんとしたかを

 何度もかくにんしてしまう

健康を考えた食事がちゃんと作れるか

自転車のメンテナンスができない

汚部屋になってしまう

経済的管理がちゃんとできるか

テレビと会話をするようになりそう

病気になったとき怖い

後見人にだまされそう

動けなくなったらどうしよう


何回も同じようなことを書いてますが、

考えてみれば、自分の困りごとなんて

「誰でも当たり前にクリアーしていること」

なのかもしれません。


精神病でありながら、ひとりで

生活を成り立たせていくためには

けやき、行政、近所、親戚、知り合いなどに、

なりふりかまわずSOSを発信

することだとおもいます。


不幸な事件が起きたとき、

ひとりでかかえ込んでいることのリスクって

高いなとおもうからです。


なかなか、こころを開いていくのも

むずかしいとでしょうけれど。


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PS なんとなく、年末の不安感って

   感じるものですね

   (まだ一ヶ月ありますが)



by コロンボ




keyakinokaikeyakinokai at 11:58

2019年11月25日

自分は野菜がきらいです。


カレーの中に、ナスやピーマンが入っていたら

もう食べる気が失せます。

スープの中に見たことない葉っぱが入っていたら

捨てたくなります。


それでも、年齢とともに食べれるものが

増えてきたような気もしますが。


先入観だけで「これは食べれない」とおもうと

もうだめです。

トマトなども見ただけで「無理」とおもい

一口食べただけで、はきそうになったりもします

(ピザに入っているのはいいのですが)。


なんでも食わずぎらいになったりすることって多いです。


人間関係でもそうかもしれません。


初めて会ったひとを先入観ではかってしまう。


もともと、あのひととは合わないと思い込んで、

相手をさけてしまうこともあります。


かといって、誰とでもなかよくする必要はないですし

その点では自由でありたいですが。


ただ、自分が相手を苦手だとおもう気持ちは伝わってしまうし、

自分が嫌われる可能性も高くなるとはおもいます。


なにごとにおいても決め付けは自分の可能性を

狭める原因になるのかなとも感じます。


野菜においても、人間関係においても、すぐに

「これはいい」とはおもえなくても、年月によって

食べれるようになったり、関係が持てるように

なったりするものなのかもしれません。


なにごとにも時間がかかる、それが自分の

あり方なのでしょう。


ただ、重要なのは自分の気持ちにウソを

つかないことだとおもいます。


いくら年月が経っても、きらいな「野菜」は

やっぱりきらいでしょうし、

苦手な「ひと」は苦手なままということもあるでしょう。


それはそれで自分の答えとして尊重し

自然に行動していったらいいのかな。

自分の気持ちに素直であっていいのかな、とも感じます。

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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 11:21

2019年11月18日


「止まっている時間は無い」のかもしれません。


親が病気したり、身内が病気したりするたびに

おもうことです。


いつ自分が病気になるとも知れない。

だからやれることはやれるうちにやっておいたほうがよい。


わかっていながら

「日常」というものに埋没した生活を送ってしまいます。


結局、何も変わらない毎日。


身内が病気になったときの緊張感を忘れてしまう。


そして、日々は流れていく。


人間は忘れる動物。


毎日を充実して過ごすためにはどうしたらよいのだろうか?


こんなことまじめに考えること自体つまらない生活を

送っているなーと感じてしまいます。


ただ、日々楽しいとおもうことを少しでもいいからすること。

テレビをみる、本を読むだけでもよいのだとおもいます。



楽しく生きている人は、考える前に行動を起こしている

でしょう。


自分は行動を起こせない、世界も広がっていかない。

ダメ人間なんじゃないかと悩むこともあります。



環境の変化をきっかけとして、自分が変わるということは

よくあることです。

身内になにかあったときにとくにそれを感じます。


今ある平穏はずっと続くものではない

毎日を大切にしなければならない

人の痛みがわかるようにならなければならない


それらをおもいしらされます。


不幸なきっかけではなく

楽しいことをきっかけとして、喜びをきっかけとして

自分の中に変化が生まれる。


そんな出来事がたくさんある日常だったら

いいのになと、強く願います。



PS 身内が死んだわけではありません


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by コロンボ






keyakinokaikeyakinokai at 11:40

2019年11月11日

自分の今年を漢字一文字であらわしてみると


「無」


です。


なにか変化を求めながらも、何もしない

習慣を改めようとおもいながらも、同じことの繰り返し

お金がない

時間を無駄にしてきた


何の変わりもない、無風状態の一年でした。



若いときは何でもいいから変化のある生活がほしいとか

みんなもっと人生を楽しんでいるんじゃないかとか

あせる気持ちばかりがありました。


変化があることが充実した人生であって、

その流れに乗れない人間は負け犬なんじゃないかと

自分で自分を見下してしまうこともありました。


若いときほど他人と比べすぎてしまい、

自己嫌悪に陥りやすいものだとおもいます。


その後、病気になり歳月が流れていったことで

自分の心境にも変化が少しずつありました。


まず、病気を繰り返さないこと

他人と比べることを無意味だとおもうこと

平穏な日常が一番だとおもうこと


これらが大事なんじゃないかと感じるようになりました。


ただ、これらが大事だとわかっていても

気づいたら他人と比べていたり

変化が欲しいとおもっていたり

思考が逆戻りしていることはしょっちゅうですが。



日常には

テレビの中のような変化に富んだ生活はないし

ディズニーリゾートのようなファンタジーもない。

ないからこそ、それをもとめてしまうのが

ひとなのかもしれません。


なにも「無い」生活だからといって

「虚無」に陥らないよう

ささやかな生活を楽しんでいけたらと考えています。



あなたの今年一年はいかがでしたか?


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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 12:52

2019年11月07日

令和元年11月7日(木)、第2けやきのチェンジデーに来ました。

毎回、私ただ一人なので、第1けやきの職員から「誰かに声かけてみたら?」と言われたので、今日はJ・Tさんと二人で来ました。
9、12、19(サイズ)をやっている第1けやきと比べると、第2けやきは9(サイズ)より小さいのや、一番大きいので32(サイズ)をやったりと、いろいろなサイズをやっています。

それにインサートのしかたも第2けやきは、機械を使わずにやったり、梱包のやり方も第1けやきと少し違います。でも職員やメンバーの人が、わかりやすく教えてくれます。

そのほか、七丁目公園の清掃にも私は3回ほど行きました。
毎月第4水曜日の音楽隊にも参加して、みんなで楽しんでいます。

今日、私がやったことは、外の散歩やナットまき、インサート、全体の検査等です。
これからも交流を深めていきたいと思います。


keyakinokaikeyakinokai at 19:26

2019年11月05日

家で座りすぎて、逆につかれる

朝、寝すぎて頭がボーっとしてしまう

親にじゃまあつかいされる

BOOK OFFに行く

最近、めっきり相模原から出なくなった

ずっとテレビをみている

将来、土日をひとりきりですごすのかとおもうと

 さみしい

それどころか毎日、ひとりになるのかとおもうと

 もっとさみしい

行動範囲を広げたいとおもう

ひとり行動をあまり楽しめない

人間基本孤独を痛感

土日の再放送をみてしまう

一回みたやつまでみてしまう

すでに、みたことに途中まで気づかなかったりする

スヌーピーショップにひとりで入りづらい(恥ずかしい)

でも、入りたいので自分の子供に買ってあげるような

 ふりして入る

実際は子供がいない

たぶん、子供のためというふうには店員にみられていない

けやきでの人間関係は大切にしたい



歳をとると新しく友達を作ったりするのは

むずかしいとおもいます。


人間しょせん孤独だ。

ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。


ここまで達観できるのは

才能があって

ひとりでなにごとかを成し遂げることができる、

ほんの一握りのひとだけだとおもいます。


ふつうは、ひとりきりの環境に耐えられるほど

人の心は強くできていないだろうと

歳をとればとるほど感じます。


友達とは呼べなくても、

気軽に口を聞ける人間関係を作っておくことが

一番大切なことなのかもしれません。


簡単なようで難しいのかもしれませんが。




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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 11:45

2019年10月28日

いつまで自転車で通院できるか

いつまで階段の電球をかえられるか

孤独な生活に耐えることができるか

ひとりになったときの病気の不安

 先生になにか告知されたときに受けとめられる

 強さがあるか

ひとりで背中にシップを貼れるか

声を出さな過ぎて、とっさに声が出ない

寝たきりになったらどうしよう

手術になったら怖い

地震で家がつぶれたとき、近所の人が

 助け出してくれるか

近所との関係はどうなっているか


正直、不安しかないのです。


考えてみると、障害者も、健常者も

関係なく、だれもが持つような悩みなのかもしれません。


みな誰もが歳をとります。

この当たり前なことに、鈍感になっている自分もいます。


30歳になったら「まだ若い」40歳になったら「今の40代は

まだ若い」60歳になっても「今の60代は若い」。


いくつになっても「まだ」という言葉がかけられます。


いくら若く見えても、人生の時間は限られています。


その限られた時間を有意義に過ごすための手立てを

考えなければならない年齢になってしまったんだなー

とつくづく思います。


今後①~⑩に書いたような悩みに答えを出せるような

生き方ができるのかと問われたら

「自分には無理です」と逃げたくなるかもしれません。


でもそのときに一歩一歩向かっていることは

事実です。


こわいこわい。


暗い話ですみません。


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by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 13:50

2019年10月21日

気だるい感じがします。

頭もずっとボーっとしている気がします。


精神病になって「薬」を飲むようになると

だるくなったりするということはよく聞きます。


自分を振り返ってみて、薬を飲むようになってから

なのかと考えてみると、

発症前から倦怠感があったような気もします。


なにか、自分が世の中に期待しなかったり、

夢や希望をもって、何者かになりたいというような意欲がなかったり、

そんなことが倦怠感となって体調にも現れていたのかもしれません。


一番あたまがはっきりしていたのは

発症直前の気分がハイになっていたころかもしれません。

そのころは連想が連想を生み、言葉が過剰になって

しまいました。9割妄想なので周りは困ったことだろう

と今では恥ずかしい気持ちです。


退院直後、今では考えられないほどの処方をされ

「こんなに飲みきれるかよ」というほどでした。


薬も減り、以前のように「何も考えられない状況」というのは

少しずつ時間をかけて脱してきたような気もします。


薬を止めれば、だるさやボーっと感をもたなくても済むんじゃ

ないかと断薬したくなることもありましたが

その「賭け」をする勇気はありませんでした。


というよりも、やらないでください。


どんな病気でも、症状を治すためには薬の副作用が

あることは仕方がないと、考えられているのかもしれません。

症状以上に副作用がつらいということはよく聞きます。


病気を治すことに専念したい先生に「副作用」のことを

考える余裕などないのかもしれません。

症状を抑えること優先で。


病院に「副作用科」のような専門の科があれば

救われる人もいるのではないかともおもいます。


無意味かもしれないですが。


jkjk


by コロンボ





keyakinokaikeyakinokai at 12:01

2019年10月15日

スマホにあこがれる

ポケモンGOができない

ネットにつながっていないので通話のみ

QRコードが読み取れない

決済ができない

使いこなせない

マナーモードにしておくと気づかない

TIK TOKができない

緊急連絡用にもつ

緊急メールの音が怖い

父が入院したときに作ったので

 鳴るたびにドキドキした

父が亡くなったあとも

 しばらくはドキドキした

着信がない

いまだにストラップを付けている

5分以上かけると有料

劣等感を持ってしまう

高い料金を払ってまで

 別にネットをしたくない

社会に取り残された気がする

原始人になった気がする

なにか信念を持ってそうだが別にない




世の中の流れというのは止められないものです。


キャッシュレス化は当然という空気がいつのまにか

できていて進められてしまう。

その時流に乗れない人にとっては

「勘弁してよ」という感じです。


何かが変わっていくと、多くの人はそれに

従わざるをえないということは、よくあることです。


その流れについていけない人もいるという

留保だけはしていてほしいです。


近いうちにスマホがなければ生活が成り立たなく

なってしまうのかもしれません(もうなってる?)。


せめて自分が死ぬまでは

「現金で支払いOK」の世の中であってほしいです。


でもスマホ決済しているひとってそんなにいるのかな・・・


jghfjgh


by コロンボ



keyakinokaikeyakinokai at 09:41

2019年10月07日

「もしも、精神病でなかったら」と考えることはありませんか?


病気なんていう「個性」は自分は

いらないと感じることもあります。


健常者として普通の生活を送るほうが

よっぽど、うらやましいです。


でも、自分の人生を振り返ってみると

患っていようが、いまいが

「人生うまくいっていないだろう」ともおもいます。


かえって病気になっていなかったほうが

つらかったかもしれません。


「精神病だから人生うまくいかないんだ」

という「逃げ」がうてないからです。


実際は、精神病になっていようが、いまいが人生は順風満帆

とはいかないもんだと考えたほうが気が楽ですが。



退院してから15年以上になりますが、

その間、父が亡くなるなどもありました。


親が患う、亡くなるなど、なにか「問題」が起こることで、

ものごとを考えるようになってきたような気もします。


「当事者にならないと気づけない」ということは

多いのかもしれません。


同じ当事者としても、

障がいをもつことで何か「気づけた」ことがあるかと聞かれたら

「ろくなことがなかった」というのが正直な気持ちです。


でも時の流れは不思議なもので

「ろくでもないこと」でも過ぎてしまえば何か、「かてになった」

と記憶を読み替えてしまうこともあるということです。


それが、歳をとるということなのかもしれないともおもいます。

つらい記憶のままでは苦しいばかりです。


障がいをことさら「個性」と捉えるのではなく

健常者でも障がい者でも

この社会で自然に生きていけるような価値観が

広まっていったらいいなと願います。



最初の?の自分なりの答えは

障がいを持ってしまった以上それを前提に生きていくしかない。

ということで、「もしも」はないです。


やっぱり歳をとりました。


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by コロンボ




keyakinokaikeyakinokai at 11:47